- ギュツラフ訳エズスク テラデ ヲソエルニ ヨバアテ ユフタ. ヲマエタテ ワソヲ シヒテヲル, ドコカラ クルト シヒトテヲル, ワシガ ヂシンカラ コヌ. タトシ ヲマエタチワ シラヌ ベツノ マコトノ ヒト ワシヲ ツカヰニ ヤアタ。ベッテルハイム訳エソ テラ ヲトウテ ヲシヘル ウチニ ヨバテ イウニ, イッタアヤ ワン シヒテ, マタ マーカラ・キヤウンデ シテヲテン, ワガ・ドウノ カッテシ クフン, タダ マコト ヌシ, イッタアヤ シラン モノヤ ワン ツカタン。ヘボン・ブラウン訳こゝに耶穌みやにをしゆるによびいひけるは なんぢらわれをしり またいづるところをもしる われはみづからきたりしにあらず われをつかはせしものはまことにて なんぢらのしらざるものなり明治元訳此時(このとき)イエス殿(みや)にて教(をしへ)をりしが大聲(おほごゑ)に呼(よび)いひけるは爾曹(なんぢら)われを知(しり)また我(わが)いづこより來(きた)るを知(しる)されど我(われ)は己(おのれ)に由(より)て來(きたり)しに非(あら)ず我(われ)を遣(つかは)しゝ者(もの)は眞(まこと)なる者(もの)にて爾曹(なんぢら)の知(しら)ざる所(ところ)なりラゲ訳然(しか)るにイエズス神殿(しんでん)にて呼(よば)はりつつ敎(をし)へて曰(のたま)ひけるは、汝(なんぢ)等(ら)は我(われ)を知(し)り、亦(また)我(わ)が何處(いづこ)より來(きた)れるかを知(し)れり、然(しか)れども我(われ)は己(おのれ)によりて來(きた)りたるには非(あら)ず、我(われ)を遣(つか)はし給(たま)ひし者(もの)は眞實(しんじつ)にて在(ましま)す、汝(なんぢ)等(ら)は之(これ)を知(し)らず、永井直治訳是の故にイエス神殿にて敎へつつ叫び、且つ云ひ給ひけるは、汝等は我をも知り、また我が何處よりあるかをも知る。然るに我は我自身より到らず、されど我を遣はし給ひし者は眞なる者におはします、汝等は彼を知らず。大正改訳聖書ここにイエス宮にて教へつつ呼はりて言ひ給ふ『なんぢら我を知り、亦わが何處よりかを知る。されど我は己より來るにあらず、眞の者ありて我を遣し給へり。汝らは彼を知らず、Textus Receptusεκραξεν ουν εν τω ιερω διδασκων ο ιησους και λεγων καμε οιδατε και οιδατε ποθεν ειμι και απ εμαυτου ουκ εληλυθα αλλ εστιν αληθινος ο πεμψας με ον υμεις ουκ οιδατεKing James VersionThen cried Jesus in the temple as he taught, saying, Ye both know me, and ye know whence I am: and I am not come of myself, but he that sent me is true, whom ye know not.バチェラー訳Tambe gusu, Yesu anak ne Kamui kora kenru ta hawe sange wa epakashnu hine ene itak-hi :— Echi utara anak ne En eamkiri hemhem ki, nei wano Ku ekbe ne ya echi eramu hemhem ki; orowa, Kuani yaikota yai Ku omande shomoki, koroka, En omandep anak ne son no ambe ne, echi utara anak ne Shinuma eamkiri shomoki ruwe ne na.