[pi⸢nai⸣ʔugaŋ]
ピナイウガン
[品詞] 名
[意味] ピナイ御願(御嶽)。「鬚川嶽」とある。『琉球国由来記』記載の名称は、ヒナイ御嶽。所在地 字鳩間西村中。祭神 神名 フチコハラ。御イベ名 イリキヤニ。由来「由来不相知」(『琉球国由来記』沖縄文化財調査報告書70集)という。鳩間島の対岸の西表島ヒナイ集落は、地味が肥え、農作物が豊穣であった。ピナイ村から鳩間島に移住した人々は、この稔り豊かなピナイ集落の御嶽の香炉の灰を分けてもらい、鳩間島に⸣ウガン[⸣ʔugaŋ](御嶽<お願>)を建立しようたしたが、ピナイ集落の人たちに拒否された。そこで、夜の闇にまぎれて二隻の⸣イダフニ[⸣ʔidaɸuni](サバニ<板船>)を出し、ピ⸢ナイ⸣ウガン(ヒナイ御嶽)の香炉の灰を分け取って船を漕ぎ急いで島に帰った。島に到着するやいなや、海岸端に香炉を安置し、線香を立てて祈願した。これがピナイウガンの始まりだという口碑が残っている。二隻の舟の船頭を務めた人の血筋から、この御嶽<御願>のサ⸢カサ[sḁ⸢kasa](司女性神職者)とティ⸢ジリ⸣ビー[ti⸢ʤiri⸣biː](<手擦り部>男性神職者)が世襲的に出るようになっているという。⸢プー⸣ル[⸢puː⸣ru](豊年祭)の⸢パー⸣レー[⸢paː⸣reː](爬竜船競漕)は、この御嶽建立譚(コン|リュウ|タン)に淵源(エン|ゲン)を発しているという。花城イガ氏(1970年当時、ピナイウガンの神司)、加治工伊佐氏(ピナイウガンのティジリビ1989年1月23日、老齢による⸢インクニガイ[⸢ʔiŋkunigai[<隠居願い>により正式に神職者を隠居した)の直話によるピ⸢ナイ⸣ウガン(鬚川御嶽)の由来は次の通りである。前記の⸣イダフニ[⸣ʔidaɸuni](サバニ<板舟>)の船頭を務めた者が、⸢トゥー⸣ゼー[⸢tuː⸣ʤeː](通事家)とカ⸢ザケー[ka⸢ʣakeː](加治工家)の先祖であった。それで、サ⸢カサ[sḁ⸢kasa](司)は通事家の血を引く女性からマ⸢ロー⸣リ[ma⸢roː⸣ri](誕生され)、ティ⸢ジリ⸣ビー[ti⸢ʤiri⸣biː](男性神職者)はカ⸢ザケー[ka⸢ʣakeː](加治工家)の血を引く男性の中からマ⸢ロー⸣ル[ma⸢roː⸣ru](誕生される)という。花城イガ氏は通事家の出身であり、同じく通事家の出身であった⸣ユージェヌ ⸣アッパ[⸣juːʤenu ⸣ʔappa](松竹家のお祖母さん松竹マカト氏)から司の神役を継承された。加治工伊佐氏は、加治工家の血を引く、寄合家のユ⸢レーヌ⸣ アブジェー[ju⸢reːnu⸣ ʔabuʤeː](寄合家のお祖父さん寄合阿嘉伊佐氏)からティ⸢ジリ⸣ビー[ti⸢ʤiri⸣biː](カンプス男性神職者)の神役を継承している。ピ⸢ナイ⸣ウガンには巨木が生えていた。特に⸣ウボー[⸣ʔuboː](威部)の所には周囲約2メートルのヤ⸢ラブ[ja⸢rabu](てりはぼく)の巨木が地面を這うように海岸へ伸びて生えていたが、1960年代の大型台風の直撃を受け、幹から折れて枯れた。樹齢約400年と推定されていた。現在のア⸢ラ⸣カーウガン[ʔa⸢ra⸣kaːʔugaŋ](新川御願)のヤ⸢ラブより大きかったと思われる。また、⸢パー⸣レー[⸢paː⸣reː](爬竜船競漕)の折り返し点を示すウ⸢キ[ʔu⸢ki](浮子)は、パ⸢トゥ⸣マレー[pḁ⸢tu⸣mareː](鳩離島)の⸢パンガマイシ[⸢paŋgamaʔiʃi](羽釜石)と、ピ⸢ナサキ[pi⸢nasaki](ピナイ崎)のマ⸢ニ⸣ツァイシ[ma⸢ni⸣ʦaʔiʃi](俎板石グンカンイシ[⸢guŋkaŋʔiʃi]<軍艦石>ともいう)を目印にするといわれている。1970年ごろ、神域の東側の大木のもとに香炉を無断で設置してあると言って、その扱いに困惑していると花城イガ氏と共に話されたが、結局は放置されたという